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過去の話
- 世界の中の地域をめざして -

 「まちづくり」「環境問題」、これらは一つの行政区域、一つの国家単位で考えるべきものではなく、またごく一部の意見や画一的に行うべきものではありませんし、そうあってはなりません。そこに住む、またはそこを利用する人が本当に求めているものを考え、総合的な効果が出るように考えていくものではないでしょうか。それはわがままを排除し、地区間の綱引きであるような一部のためのハード整備をやめ、さらに公共事業優先主義を排除しながら、地域特性が活かされ、かつ効率的な行財政運営を行うべきです。

 ここでは、まちづくりの基礎となる事項をベースに特集としてまちづくりの問題点や参考となる事例を取り上げ、問題提起をしていきたいと思います。

 特に、近年のメディアやネットワークの発達に伴い、世界と、私達の住む地域が直接結び付く事が出来るようになっています。その状況の中で、ここでは国家というものを大事にしながらも、言い古された感のある「グローバル」(地球規模)と、田舎と言う意味ではなく地域と言う意味での「ローカル」を合成した「グローカル」と言う言葉をキーワードとしながら、私達の手による「まち」の方向性を探る事としていきます。

今月の特集へ 

 

まずまちの財政のしくみを知ろう

自分達の住むまちの予算を知っていますか?

地方財政の一般的な問題点

1.シーリングと言う考え方

2.予算の配分

3.補正予算のあり方と公開

4.決算に対する議会と行政担当者の意識 

 一般的には以上の点が主な地方財政の問題点として議論されています。これから、私見ですが、その内容を考えてみます。

 家庭で買物をするときの「予算」と言うものは、自分の収入から支払額を考えたものですが、思い切って高いものを買ったり、衝動買いをする事があります。ところが、行政はこの「予算」で総てが動かされ、決めた通りに、決めた使い方以外には何も認められないなど、絶対のものといっても過言ではありません。決算のときに、立てていた予算と使った額が同じにならなければいけないため、数ヶ月かかって慎重に歳入(収入)を予測し、歳出(支出)する事を決定します。

 予算は支出の基礎であり、陳情したときに「予算がない」というのはこのためです。やるべき事業を検討した結果、収入より支出が超過し、どうしても必要だと言う場合には借金が出来ます。これを起債と言い、一般には低利のものと思われていますが、実はこの金利は住宅金融公庫より高いものです。また、民間では金利が安くなれば有利なほうに借り換えも出来、ちょっともうかればいっぺんに返す事も出来ます。しかし行政ではこれが認められておらず、いったん借りると決められた額をずっと金利を払って返す事しか出来ません。この、借金を返すお金を公債費と言って、この額が一つの財政指標として健全度を計るために使われます。この額が高くなると、赤字再建団体として国の管理下におかれ、自由な裁量の事業も支出も考える事が出来ず、地方分権どころではありません。このほか、指標には自主財源比率と言って、自分のまちでどれくらい自分の財源が確保できるのかと言うのも使われます。三割自治と言うのはこれが三割しか確保できず、あとは国とかのお金に頼っているということです。当然自分の自由度は低くなります。また、その他財政調整基金と言って民間で言えば貯金にあたるものも使われ、これは災害等の予測不可能な緊急支出にあてられます。

 さて、概略の説明はこれくらいとして、予算はどういう考え方で編成されるのでしょうか。一般的にはシーリングと言う考え方が基礎にあり、前年に比べどれだけ伸びたか、と言う事が前面に出されます。これは比較が簡単な訳ですが、経済が右肩上がりということが前提の考え方で、現代のように経済が沈滞し、税収、つまり収入が伸びない時代にはそぐいにくいものです。マイナスならマイナスでいいわけですが、そうなればマスコミも議会もまるでこの世の終わりのように問題視し、悪い事をしているように聞こえるので、行政の職員も無理矢理収入を計算上で増やし、不必要と思われるような事業を計画するからです。この考え方は早急に改めなければなりません。

 また、行政はどういう支出のしかたをするのでしょうか。その年と後年度(未来)のために必要と思われるものに加え、緊急必要なものに予算をつけます。だから、予算書をみれば本来はそのまちの特色や力を入れる政策が判るものです。しかし一般的に日本では民生費、いわゆる福祉予算がトップの比率を占め、続いて教育費、土木費がこれに続きます。ところが、九月の補正予算で土木費がトップに踊り出ます。これは国からの補助金が八月に内示され、それにあわせてそのまちのお金を予算に組み込むからです。アメリカなどでは、分権も進み、また小さな政府である事も関係するのか、こういうことはありません。予算も各分野に平等に配分され、本当にそのまちに必要な事には、マンション型財団と言うものが存在し、市民が税金と別にそこに寄付したお金を要求の度合に応じて配分しています。これが本当の市民主権であり、地方分権であり、民主主義ではないでしょうか。

 ここで、補正予算の話しが出ましたので、それについてちょっと触れておきます。本来、これは「補正」ですから、年当初に予測し得なかったものとか、収入が変わった、また支出が少なくてすみそうだということに対し、予算と決算の比較はゼロだと言う原則にのっとって組む予算です。しかし現在では当初予算でつけにくいものを補助内示にあわせてつけてきます。それで九月の大型補正と言う言葉が使われます。これは、先に説明したシーリングと言う考え方により、当初予算は表に出て比較されるが、補正は総額的には比較されにくく、またそれによる決算はマスコミ報道もされないと言うように、一般の市民に判りにくい闇の中で処理したいと言う気配が感じられてしようがありません。

 では、この決算とはどういうものでしょうか。年度末に会計を閉め、5月末にお金の出し入れを完了します。これを出納閉鎖と言います。その後帳簿を整理してだいたい9月の議会に上程され、その審議を受けます。審議を受けるとはいえ、特別委員会を設けて数ヶ月の審査後に審議するので、可決承認は早くて12月です。ここに問題があります。翌年度の予算は9月には作成にかかるからです。つまり、決算で出て来た問題点や反省を予算に反映するためには、3年後の予算からとなるからです。これでは変化する時代には対応できません。人間の手で計算していた時代と違い、電算処理すれば6月の議会に上程してさっさと処理する事が可能なはずです。

 また、この議会の審議が曲者です。本来しっかりとした審査をして、きちんと問題点が抽出できるべきですが、行政の決算内容は複雑である事に加え、貸借対照表や損益計算書すら判らない議員があまりに多いのです。しかも行政の決算は企業会計や公益法人会計とも違う独特のものですから、しっかり内容が判らなければ、指摘をしようとしてもプロである職員に言い逃れられてしまいます。しかし、恥をかかないために迂闊な事がいえないと言う雰囲気に加え、何か発言しなければ威厳が保てないと言う立派な(妙な?)議員根性が働きます。そこで指摘できるのは、ただひとつ、不用額です。これは、行政の会計において費目間の流用ができないため、足りないところにまわす事も出来ず、補正を組んでいなければ部分的に余ったお金として出てくる額です。しかし、これが行政の怠慢で事業をせずに残ったお金ならともかく、本当に節約して残したものだったり、社会情勢や市民の都合で事業が出来なかったものが殆どである訳です。本来は誉められこそすれ、指摘されて追求される部分ではありません。これを攻撃されては職員はたまりませんし、議会において意見が出過ぎるのも見栄えが悪いため、これが出ないように予算を使いきると言う感覚が働いてしまいます。また、どこも厳しい財政の中、財政当局も余った部署の翌年の予算をカットしようとするため、使いきろうとします。ここで、年度末に工事が集中したり、何でと思うような不必要な工事が行われたり、事務用品の購入が増えてくるのです。

 加えて最後に、この予算の使い方の姿勢にも旧態然とした硬直した部分がよく見受けられます。丁度いい事例が私の熊本市にあったので、事例でお話ししたいと思います。9年度、熊本市ではごみ焼却工場の改修の予算を76億円計上しています。これは今の工場が老朽化して、あと数年しか持たないために、改修の計画を建て、新技術の新工場建設の場合と費用対効果を検討して計画されたものです。計画当時から近年の素晴らしい技術である完全燃焼ごみ焼却プラント、これはダイオキシンの発生もなく、ごみの焼却灰も出ずに、廃棄物その他の面から環境保前面で大変に注目されている技術ですが、の検討がされましたが、まだ実用化にならないと、やむなく旧来のものの改修で決定していました。ところが、予算の執行前にこの新しい技術が商業ベースに乗ったのです。当然これに切り替えて新工場建設に移行するものと思い、私もそれを主張しましたが、既に決定したからとの一点張りで、あくまで旧工場の改修で押し切られました。これは10年乗って排気ガスの汚い、燃費も悪い車検が来た車に、車検をとってしばらく乗ってお茶を濁すのか、車検代プラス少しのお金を足して燃費のいい環境に優しい新車を買うかと言う話しに似ていると思います。どっちが本当に効率的な予算執行かと言えば、説明は足りないものの、今これをお読みの方はお判りいただけると思います。このような執行の硬直化は、熊本市に限った事ではなく全国的にみられる傾向であり、この体質が改善されない限り行政改革は有り得ないのではないでしょうか。

 長々とお話ししてきましたが、以上のような財政の話しは以外と一般には知られないものがあります。しかし、行政がかかわる部分として、まちづくりの基礎となる部分ですので、皆でこのしくみを知り、自分のまちの財政に興味を持ちながらしっかりと見ていく必要があると思います。ぜひ、これを機会にご理解いただき、まちづ゜くりに取組んでください。

<秋の特集>

まちのランドマークを考える ーまちのシンボルの活かし方ー

どのまちにも必ず「ランドマーク」があります。そのまちのシンボルとなるもので、それは建築物ではない場合もありますが、まちづくりを行って行く上では欠かせないものです。わたしのまち熊本も、それが完全に活かされているとはいえません。

最近では、熊本城を復元するために、熊本市も「一口城主」といって、個人参加のお城の復元に対する募金を募っていて、たいへんにいい傾向であると思います。今回は、私なりにこの熊本城を例にとって、まちづくりにどう活かして行くかを考えたいと思います。

熊本城の現状の分析と考察

我々の住む熊本には、そのほぼ中心部に、まちのシンボルである熊本城があります。このお城はまもなく築城400年を迎える歴史のあるものであり、これ以降に築造された近世城の規範となっただけでなく、加藤清正が平定したこの熊本のシンボルとして、人々の心の中にそびえたってきたものです。

しかし、あまりに普遍のものとして存在してきたことが原因なのか、近年は空気のように、そこにあることが「あたりまえ」になりつつあるのではないでしょうか。熊本城に入ったことがない若者。よその人から尋ねられてもその歴史や名前すら言えない人が増えています。悲しいことです。あまりに身近に、そして普遍的すぎて、その価値を見失ってしまっているかのようです。

一方、その観光資源としての価値に目を転じてみると、一説には500億円の価値あるテーマパークだといわれています。これをうまく活かして行けば、経済面だけでなく、その歴史的価値も含めて、おおいに地域外に発信できるものがあるわけですが、残念なことに、その来訪者数も近年では年間100万人を下回りつつあり、人々の記憶の中に留まるのみのものとなろうとしている事が危惧されます。

こういう現状を考え合わせると、熊本城は、人が単に観光として見るだけの「建築物」とか「歴史的史跡」なのではなく、今後手を加えて整備して行く段階において、熊本のシンボルにふさわしいものにして行くことには論を待ちませんが、熊本の人の「こころ」であり、また他所への「発揚すべき意識」であるととらえ、人々がもっと身近に活用することが求められているのではないでしょうか。


でも、いったいどうしたら・・・

城内の市民活動への開放

御殿、櫓群の復元整備後における観月会、茶の湯などの歴史的伝統文化事業に対する活動への施設開放

市民学習講座の開催

城内施設を活用した歴史、文化教育の実施

学習拠点の整備

三の丸を活用した郷土歴史資料館や古文書館などの整備と博物館などの機能強化、郷土史検定による認定の実施

交流会の開催

全国伝統文化の宗家大会などの開催

市民のふれあい促進

市民の労働奉仕受け入れ制度の設立

施設連携の集大成

市内及び近郊の歴史的施設、観光施設への連携の中心地としての機能整備

 

そして、夢のランドマークが実現するのではないでしょうか。

 これまでの特集へ(書庫)

1997年秋 ヨーロッパの実態と日本との比較

1998年新年 緑化問題を考えるードイツとの比較ー

1998年春 NPOってなんだろう

     1998年夏 住民意識とその活用−グローカル時代に地方行政のはたすべき役割−

1998年秋 地下水を考える ー本来の地下水の涵養と節約ー

  

今後の特集予定

道路と排水問題を考える ーまちの基礎の道路と排水の隠された問題点ー 

広域行政と合併問題を考える ーまちの生き残り戦略とはー

現 代 教 育 考

 「教育問題」それは一口に言ってもたいへん裾野の広いものです。子供の学習、また大人の生涯学習、子供の心にかかる問題、数え上げればきりがありません。

 ここでは、私自身が学習塾経営という教育の現場に身を置き、直接子供達や保護者と対話したことから得た体験を通して、また市役所の職員として行政の内情を知っていた立場を通して様々な問題を提起し、その改善策を探ります。

今月の特集へ 

今、どういう教育が行われているか知っていますか?

まず教育のしくみを知りましょう

 塾をやっていた頃、その入会面接のときに同伴してきた保護者の方から必ずいわれる事がありました。「すべて先生にお任せします」「何も文句を言いませんので、びしびし鍛えてください」その言葉を聞くと、何時も複雑な気持ちがしたものでした。子供達への真の教育の実現と、子供の未来のために役立てばと言う気持ちで始めた学習塾でしたが、当時は経営的にも苦しく、またそういうことを目の前で言われている子供達がかわいそうで、黙って入会を認めましたが、本来は、「あなたは子供のために何をしてあげているの?」、「子供のためにお金を出す事しかできないの?」と言う一言を何度飲み込んだ事でしょう。

 今、子供達の様々な問題が取り沙汰されています。しかし、その議論を聞いていますと、文部省が対策に乗り出すだとか、学校の先生の質を向上させるだとかが殆どです。確かに大事な部分でしょう。しかし何かそこに、取り違えたものがあるのではないかと感じます。本来子供の問題、とくに教育の「育」の部分は保護者がそれをになうべきもので、教育のシステムに頼るべきものではありません。

 もっと教育に親が、保護者が、地域が参加するべきです。今、学校で、行政で、どういう方針でどういう内容で、どういう手法で指導がされているかあなたは知っていますか。学校教育や地域教育のシステムの総元締とも言うべき教育委員会、県市町村の事務局の部分ではなく、法により任命された教育委員さんの会議でどういう議論がなされているか知っていますか。

 先日、熊本市では教育委員さんの会議を公開するシステムを設けました。私も4年がかりでこれの実現に向けて活動し、傍聴者の発言は認めないが、10名に限り傍聴を認めると言う不本意な内容ですが、取り敢えず実現しました。私の調査では全国でも東京都の中野区と熊本市ぐらいにしかない制度です。

 私がなぜそれにこだわって活動してきたのか。私がもし子供を学校に通わせていれば、どういう基本方針でどういうことを問題にし、そして主目的にして自分の子供が指導を受けているのかを知りたいと思ったからです。そこでなされている議論が自分の考えと違ったり、自分の子供の個性にあわないものであれば、改善したり変更したりする議論を自らおこすべきであると考えます。

 ただ、なぜこの会議が全国的には公開されていないのでしょうか。たてまえ上は、子供の指導にあたっての非常にプライベートかつデリケートな問題を扱うからと言う、指導要録や内申書の非開示と同じ様な理由です。しかし本音のところでは、現在の教育委員さん方が首長が任命するという法の定めによりいわば官選であり、教育に対するプロ意識と熱意がない場合が多いため、議論を聞かれると困ると言う意識が働いているようです。そこで、教育のシステムや方向性は文部省から連綿と流れの続く各地教育委員会事務局がつくり、形式上委員会で承認するだけで、そこには行政がやりやすいように意見を出さない、出させないと言う暗黙の了解があります。実際、熊本市の公開前の教育委員会会議は議事録さえ公開せず、やっと提出してきた議事録ではその過去一年間、会議時間は30分から1時間、説明と承認の裁決のみで意見や討議はなしと言うお粗末なものでした。これが65万都市の子供達の指導を考える会議かと愕然としたものです。

 もっと私達はそういう会議に参加するべきです。もっと見るべきです。そして「おかしい」と思うことがあれば声を上げるべきです。実際、熊本市の会議も公開後は2時間から3時間に及び、若干の出来合い討議の匂いがするとはいえ、質疑が行われるようになりました。ただ、傍聴人は毎回2、3人です。もっとも、会議開催の時間にも問題があるため、仕事を持つ人でも参加できるよう、今後中野区のように夜にも開催する事となりました。私達はこういう機会を捉え、何でも人任せにするのではなく、もっと子供のことに参加すべきではないでしょうか。

 また、教育委員さんが官選であると言う話をしました。現在は法の定めにより、各首長が議会の同意を経て教育委員を選任しています。これは教育委員会が行政から独立していると言うたてまえであることも関係しています。しかし、私達の大事な子供を託す教育委員の選出に対し、私達は口をはさむ余地がないのです。熱意がない人や意欲のない人が選任されても、首長か議会にその選任後に苦情を言うしかないのです。

 ところが、東京都中野区では教育委員を準公選していました。これは区民が投票して決めるのですが、首長が決めると言う方のたてまえがあるために「投票の結果を参考にした」ということにして首長が選任します。それで「準」公選と言う訳です。その投票の前には意欲のある人が立候補して、立会演説会を開き、区民が政策と人となりを判断する場がありました。ただ、ここで過去形の表現をしているのは、現在はこれが行われていないからです。区民からの評判も悪くなく、費用も3000万円ぐらいと、効率のいい有効な事業だったと思うのですが、文部省に逆らったということで、その意向を受けた一部政党の圧力運動で投票率が低下したと言うのが廃止の真の原因と聞いています。もし本当にそうであれば文部省の閉鎖的な姿勢には腹が立ちます。ただ、こういう政策がなくなってしまった事は残念でなりません。私達は教育を、子供達の未来を自分達の手に取り戻すために、こういう事から参加する事を始めていかなければならないのではないでしょうか。

 長々述べてきましたが、こういう事が教育の基本的なシステムです。とにかく、子供のプライベートな事ということを大上段に振りかざし、文部省という巨大官庁がすべての地方組織を意のままに動かすというおごりが感じられます。教育とは、くどいようですが、社会のシステムや他人に頼るものではありません。自分の子供の個性や性格を一番把握できる保護者が、その信念に基づいて行っていくものです。教育の問題は、特にいろいろ意見が分かれるところですが、これを機会に基本的なシステムと私の信念をご理解いただき、子供達の明るい未来を考えていっていただきたいと思います。

 

<秋の特集>

子供が荒れるのは親が悪いのか ー社会に夢をもてないこどもたちー

子ども達の「荒れ」が最近話題になっています。マスコミを騒がせるだけで゜はなく、警視庁では、少年問題対策の人員まで増員して、少年犯罪の取り締まりと防止に力を入れて行くそうです。

私達が子どもだった時代、つまり20年ほど前ですが、そのころのことを考えてみると、似たようなことはあっていました。いじめ、かつあげ、万引きなど、考えてみればやっていることのそのもの自体はそう変わっていないような気もします。ただ、違うのはその行動の裏に隠された子ども達の精神面なのでしょうか。確かに、悪いことはやっても、人を死に至らしめることはやっていなかったように思います。

子どもが悪いとわかっていてそういうことをするときには、二つのパターンがあるといわれています。ひとつは、自分を見てもらいたいとき、またひとつは、大人へ憧れから来る、背伸びした行動です。しかし、最近のものはそれだけでは割りきれない、何か別のものが原因としてある様に思えてなりません。それはなんなのでしょう。

「子は親の鏡」とは古来から言われている言葉ですが、たしかに子どもは親や大人のすることを見て育ち、模倣して人格を形成して行きます。周りにいる大人の行動が子ども達の人格を決定します。その意味からして、前回の特集でも申し上げたように、「いっこおき」という理屈が成り立ってきます。

偏見ともとれる言葉ですが、実際の例として、教育センターなどで相談を受ける問題行動の子ども達の親は、化なりその行動や外見に問題のある親が多いということがあるようです。ここで言う問題とは、環境とか行動というよりも、精神面であるということで、たとえば「うそをつく」、「会話がない」、「他人への思いやりがない」というようなことがあげられるそうです。

そういう大人が、いくら子どもを教育しようとしても子どもはいうことを聞くはずがありません。自分達の子どものころを考えてもそうですが、「自分はどうなんだよ」という感覚しか持てないものです。また、そういう姿を見て、どうせそういう大人ばかりなら、「言われたとおりにしても馬鹿らしい」という感覚になり、将来に夢がもてなくなってしまっているのではないでしょうか。

また、周りの大人がいくら襟を正していても、もうひとつ大きな問題があります。マスコミの存在、いいかえれば、あふれかえる垂れ流しにされた情報の存在です。

近年は高度情報伝達化社会です。私達の周りには報道による情報があふれ、居ながらにして社会のことがわかるというすばらしい利点がある反面、不必要な情報もあふれています。そしてそこには、夢を壊してしまうようなものがあるのもまた事実です。

特にここのところ、いろいろな社会の「悪」が報道されています。「悪」は報道されてしかるべきものなのですが、最近のマスコミの傾向として、それをとりたてて報道し、大衆にさらけ出すことのみが正義であるかのような風潮があります。うまく言えませんが、例えば汚職事件などは糾弾されてしかるべきものですが、行政の行動などについて、その「いい面」は報道せずに、「わるい面」のみを報道し、その「わるい面」がほんの一部であったとしても、それがあたかも全体でやっているかのようなセンセーショナルな書き方で、面白おかしくアレンジしている場合が多く見うけられます。

報道の使命は、事実を事実として伝えるだけでよく、コメントや脚色を加えるべきものではないことは私が言うまでもなく、それをやってしまえば、社会学上の「マスコミの大衆操作」になってしまうのですが、そういう傾向は確かに見うけられ、ペンの暴力に近い場合すら見うけられます。

こういう情報の渦の中に居れば、「しょせん大人の社会ってこんなものか」という感覚を持ってしまうのは当然のことです。つまり、将来に夢がなく、「今」を気分の向くままに生きればいいというような感覚になってくるのです。

いい例が、今の子供たちは政治に興味がないということです。「誰がやっても同じ」とか、「うそつきだから」とか、「きらい」とか言う言葉を私もいわれる時がありますが、不思議なことに、誰もが同じ言葉を使います。そしてそこにはちゃんとした理由がありません。つまり、どこかで聞いた言葉を受け売りしているわけです。

こういう状態で、本当に意欲を持ち、将来に夢と志を持って活動していくことができるでしょうか。それができなければ、精神的にもエネルギーの持っていき場がなく、不安定になったり、短気になったりして、欲望のままに生きることしかできなくなってくるのではないでしょうか。

私達大人は、子ども達のことを本当に考えて行くのならば、その人格を認めて権利をしっかりと認めてあげるだけでなく、情報管制にまで踏み込んで、将来に夢と希望を持たせてあげるということが、今一番必要なのかもしれません。

 

これまでの特集へ(書庫)

1997年秋 子供の情緒を安定させる「父性」と「母性」

1998年新年 いじめの原因を考える ―子どもの人間関係が変わったー

1998年春  体罰に関して考える ー体罰禁止の弊害と真の指導ー

1998年夏  高度情報伝達化社会の子供達 ーマスコミやゲームは悪者かー

1998年秋  世代間の問題を考える ー団塊の世代といっこおきー

今後の特集予定

子供の生活環境を考える ー地域と家庭の三世代交流ー

子供の言葉と行動の乱れ ー文字衰退とメディアとテレビドラマの活用ー