−現 代 教 育 考−
「教育問題」それは一口に言ってもたいへん裾野の広いものです。子供の学習、また大人の生涯学習、子供の心にかかる問題、数え上げればきりがありません。
ここでは、私自身が学習塾経営という教育の現場に身を置き、直接子供達や保護者と対話したことから得た体験を通して、また市役所の職員として行政の内情を知っていた立場を通して様々な問題を提起し、その改善策を探ります。
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今、どういう教育が行われているか知っていますか?
まず教育のしくみを知りましょう
塾をやっていた頃、その入会面接のときに同伴してきた保護者の方から必ずいわれる事がありました。「すべて先生にお任せします」「何も文句を言いませんので、びしびし鍛えてください」その言葉を聞くと、何時も複雑な気持ちがしたものでした。子供達への真の教育の実現と、子供の未来のために役立てばと言う気持ちで始めた学習塾でしたが、当時は経営的にも苦しく、またそういうことを目の前で言われている子供達がかわいそうで、黙って入会を認めましたが、本来は、「あなたは子供のために何をしてあげているの?」、「子供のためにお金を出す事しかできないの?」と言う一言を何度飲み込んだ事でしょう。
今、子供達の様々な問題が取り沙汰されています。しかし、その議論を聞いていますと、文部省が対策に乗り出すだとか、学校の先生の質を向上させるだとかが殆どです。確かに大事な部分でしょう。しかし何かそこに、取り違えたものがあるのではないかと感じます。本来子供の問題、とくに教育の「育」の部分は保護者がそれをになうべきもので、教育のシステムに頼るべきものではありません。
もっと教育に親が、保護者が、地域が参加するべきです。今、学校で、行政で、どういう方針でどういう内容で、どういう手法で指導がされているかあなたは知っていますか。学校教育や地域教育のシステムの総元締とも言うべき教育委員会、県市町村の事務局の部分ではなく、法により任命された教育委員さんの会議でどういう議論がなされているか知っていますか。
先日、熊本市では教育委員さんの会議を公開するシステムを設けました。私も4年がかりでこれの実現に向けて活動し、傍聴者の発言は認めないが、10名に限り傍聴を認めると言う不本意な内容ですが、取り敢えず実現しました。私の調査では全国でも東京都の中野区と熊本市ぐらいにしかない制度です。
私がなぜそれにこだわって活動してきたのか。私がもし子供を学校に通わせていれば、どういう基本方針でどういうことを問題にし、そして主目的にして自分の子供が指導を受けているのかを知りたいと思ったからです。そこでなされている議論が自分の考えと違ったり、自分の子供の個性にあわないものであれば、改善したり変更したりする議論を自らおこすべきであると考えます。
ただ、なぜこの会議が全国的には公開されていないのでしょうか。たてまえ上は、子供の指導にあたっての非常にプライベートかつデリケートな問題を扱うからと言う、指導要録や内申書の非開示と同じ様な理由です。しかし本音のところでは、現在の教育委員さん方が首長が任命するという法の定めによりいわば官選であり、教育に対するプロ意識と熱意がない場合が多いため、議論を聞かれると困ると言う意識が働いているようです。そこで、教育のシステムや方向性は文部省から連綿と流れの続く各地教育委員会事務局がつくり、形式上委員会で承認するだけで、そこには行政がやりやすいように意見を出さない、出させないと言う暗黙の了解があります。実際、熊本市の公開前の教育委員会会議は議事録さえ公開せず、やっと提出してきた議事録ではその過去一年間、会議時間は30分から1時間、説明と承認の裁決のみで意見や討議はなしと言うお粗末なものでした。これが65万都市の子供達の指導を考える会議かと愕然としたものです。
もっと私達はそういう会議に参加するべきです。もっと見るべきです。そして「おかしい」と思うことがあれば声を上げるべきです。実際、熊本市の会議も公開後は2時間から3時間に及び、若干の出来合い討議の匂いがするとはいえ、質疑が行われるようになりました。ただ、傍聴人は毎回2、3人です。もっとも、会議開催の時間にも問題があるため、仕事を持つ人でも参加できるよう、今後中野区のように夜にも開催する事となりました。私達はこういう機会を捉え、何でも人任せにするのではなく、もっと子供のことに参加すべきではないでしょうか。
また、教育委員さんが官選であると言う話をしました。現在は法の定めにより、各首長が議会の同意を経て教育委員を選任しています。これは教育委員会が行政から独立していると言うたてまえであることも関係しています。しかし、私達の大事な子供を託す教育委員の選出に対し、私達は口をはさむ余地がないのです。熱意がない人や意欲のない人が選任されても、首長か議会にその選任後に苦情を言うしかないのです。
ところが、東京都中野区では教育委員を準公選していました。これは区民が投票して決めるのですが、首長が決めると言う方のたてまえがあるために「投票の結果を参考にした」ということにして首長が選任します。それで「準」公選と言う訳です。その投票の前には意欲のある人が立候補して、立会演説会を開き、区民が政策と人となりを判断する場がありました。ただ、ここで過去形の表現をしているのは、現在はこれが行われていないからです。区民からの評判も悪くなく、費用も3000万円ぐらいと、効率のいい有効な事業だったと思うのですが、文部省に逆らったということで、その意向を受けた一部政党の圧力運動で投票率が低下したと言うのが廃止の真の原因と聞いています。もし本当にそうであれば文部省の閉鎖的な姿勢には腹が立ちます。ただ、こういう政策がなくなってしまった事は残念でなりません。私達は教育を、子供達の未来を自分達の手に取り戻すために、こういう事から参加する事を始めていかなければならないのではないでしょうか。
長々述べてきましたが、こういう事が教育の基本的なシステムです。とにかく、子供のプライベートな事ということを大上段に振りかざし、文部省という巨大官庁がすべての地方組織を意のままに動かすというおごりが感じられます。教育とは、くどいようですが、社会のシステムや他人に頼るものではありません。自分の子供の個性や性格を一番把握できる保護者が、その信念に基づいて行っていくものです。教育の問題は、特にいろいろ意見が分かれるところですが、これを機会に基本的なシステムと私の信念をご理解いただき、子供達の明るい未来を考えていっていただきたいと思います。
<秋の特集>
子供が荒れるのは親が悪いのか ー社会に夢をもてないこどもたちー
子ども達の「荒れ」が最近話題になっています。マスコミを騒がせるだけで゜はなく、警視庁では、少年問題対策の人員まで増員して、少年犯罪の取り締まりと防止に力を入れて行くそうです。
私達が子どもだった時代、つまり20年ほど前ですが、そのころのことを考えてみると、似たようなことはあっていました。いじめ、かつあげ、万引きなど、考えてみればやっていることのそのもの自体はそう変わっていないような気もします。ただ、違うのはその行動の裏に隠された子ども達の精神面なのでしょうか。確かに、悪いことはやっても、人を死に至らしめることはやっていなかったように思います。
子どもが悪いとわかっていてそういうことをするときには、二つのパターンがあるといわれています。ひとつは、自分を見てもらいたいとき、またひとつは、大人へ憧れから来る、背伸びした行動です。しかし、最近のものはそれだけでは割りきれない、何か別のものが原因としてある様に思えてなりません。それはなんなのでしょう。
「子は親の鏡」とは古来から言われている言葉ですが、たしかに子どもは親や大人のすることを見て育ち、模倣して人格を形成して行きます。周りにいる大人の行動が子ども達の人格を決定します。その意味からして、前回の特集でも申し上げたように、「いっこおき」という理屈が成り立ってきます。
偏見ともとれる言葉ですが、実際の例として、教育センターなどで相談を受ける問題行動の子ども達の親は、化なりその行動や外見に問題のある親が多いということがあるようです。ここで言う問題とは、環境とか行動というよりも、精神面であるということで、たとえば「うそをつく」、「会話がない」、「他人への思いやりがない」というようなことがあげられるそうです。
そういう大人が、いくら子どもを教育しようとしても子どもはいうことを聞くはずがありません。自分達の子どものころを考えてもそうですが、「自分はどうなんだよ」という感覚しか持てないものです。また、そういう姿を見て、どうせそういう大人ばかりなら、「言われたとおりにしても馬鹿らしい」という感覚になり、将来に夢がもてなくなってしまっているのではないでしょうか。
また、周りの大人がいくら襟を正していても、もうひとつ大きな問題があります。マスコミの存在、いいかえれば、あふれかえる垂れ流しにされた情報の存在です。
近年は高度情報伝達化社会です。私達の周りには報道による情報があふれ、居ながらにして社会のことがわかるというすばらしい利点がある反面、不必要な情報もあふれています。そしてそこには、夢を壊してしまうようなものがあるのもまた事実です。
特にここのところ、いろいろな社会の「悪」が報道されています。「悪」は報道されてしかるべきものなのですが、最近のマスコミの傾向として、それをとりたてて報道し、大衆にさらけ出すことのみが正義であるかのような風潮があります。うまく言えませんが、例えば汚職事件などは糾弾されてしかるべきものですが、行政の行動などについて、その「いい面」は報道せずに、「わるい面」のみを報道し、その「わるい面」がほんの一部であったとしても、それがあたかも全体でやっているかのようなセンセーショナルな書き方で、面白おかしくアレンジしている場合が多く見うけられます。
報道の使命は、事実を事実として伝えるだけでよく、コメントや脚色を加えるべきものではないことは私が言うまでもなく、それをやってしまえば、社会学上の「マスコミの大衆操作」になってしまうのですが、そういう傾向は確かに見うけられ、ペンの暴力に近い場合すら見うけられます。
こういう情報の渦の中に居れば、「しょせん大人の社会ってこんなものか」という感覚を持ってしまうのは当然のことです。つまり、将来に夢がなく、「今」を気分の向くままに生きればいいというような感覚になってくるのです。
いい例が、今の子供たちは政治に興味がないということです。「誰がやっても同じ」とか、「うそつきだから」とか、「きらい」とか言う言葉を私もいわれる時がありますが、不思議なことに、誰もが同じ言葉を使います。そしてそこにはちゃんとした理由がありません。つまり、どこかで聞いた言葉を受け売りしているわけです。
こういう状態で、本当に意欲を持ち、将来に夢と志を持って活動していくことができるでしょうか。それができなければ、精神的にもエネルギーの持っていき場がなく、不安定になったり、短気になったりして、欲望のままに生きることしかできなくなってくるのではないでしょうか。
私達大人は、子ども達のことを本当に考えて行くのならば、その人格を認めて権利をしっかりと認めてあげるだけでなく、情報管制にまで踏み込んで、将来に夢と希望を持たせてあげるということが、今一番必要なのかもしれません。
これまでの特集へ(書庫)
1997年秋 子供の情緒を安定させる「父性」と「母性」
1998年新年 いじめの原因を考える
―子どもの人間関係が変わったー
1998年春
体罰に関して考える ー体罰禁止の弊害と真の指導ー
1998年夏
高度情報伝達化社会の子供達 ーマスコミやゲームは悪者かー
1998年秋
世代間の問題を考える ー団塊の世代といっこおきー
今後の特集予定
子供の生活環境を考える ー地域と家庭の三世代交流ー
子供の言葉と行動の乱れ ー文字衰退とメディアとテレビドラマの活用ー |