伊雑宮偽書事件顛末記


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  伊雑宮の事件は、武家に横領された神領の自治回復運動・抵抗活動の一端として理解する必要があります。

(1)九鬼氏の神領横領と神領返還闘争
  この地域の神宮警固は、物部の末裔である的矢氏が伊雑御浦惣検校としてその任に當っていましたが、1531年(享禄4)に九鬼浄隆に滅ぼされ、志摩は浄隆の弟の鳥羽城主,九鬼嘉隆の支配下に置かれます。庇護者を失った伊雑の神戸は九鬼氏に横領され、宮は経済基盤を失って困窮することになります。
 
  戦国末期という時代柄、自らの遷宮もままならなかった伊勢内宮に別宮を経済援助する余裕はなく、宮の経済を支えたのは、御師でもある伊雑の神人でした。元来伊雑の在地大夫は内宮から派遣されたものでしたが、この頃は完全に土着しておりましたし、経済的にも自立するとなると、自然と伊勢内宮の下流という意識は希薄になっていったと思われます。
 

  江戸時代に入り社会が安定してくると、伊雑の神人は九鬼氏の神領横領の非法を盛んに訴えるようになり、領主と衝突し始めます。また造替迂宮の経済的負担に耐えられず社殿の老朽化が進でいたことから、要求は神領返還と造替迂宮の二本立てとなります。
 
  彼らは普通の領民と異なり、御師として各地に布教と寄進集めの活動を展開しておりますので、直訴等の非常手段に訴えるのに障碍が少なかったと思われます。また宗教的権威も背負っておりますので、將軍に直訴しても磔にかかるわけでもありません。
 
  しかし小藩鳥羽としては、数少ない穀倉地帯である磯部を易々と手放す道理もありません。まず事件は九鬼家との交渉のもつれから始まります。
 

(2)闘争の始まり
  領主九鬼氏は、伊雑神人の内宮への度重なる陳情に苛立ち、実力阻止にかかり、多数の流刑者を出します。ところが強圧的だった九鬼家が、1632年(寛永9)相続問題のトラブルに目を付けられて改易となると、九鬼が伊勢二宮から横領していた二見郡六ヶ村が、翌33年(寛永10)領民の訴えで内外宮に神領として返還されます。これを見た伊雑神人は、片手落ちの沙汰とばかりに、33年,34年と神領返還と造替迂宮を幕閣に訴えます。しかし、善処するとの回答のみで追っての沙汰は無く、遂に1636年(寛永13)山口九右衛門等が家光に直訴。しかし、新領主内藤志摩守はこれを握り潰して、九右衛門を捕らえ、苛政をしきます。
 
  1645年(正保2)寺社奉行・評定所に神訴。このとき訴状に「日本第一の大社、大神宮」という表現が現れます。最初は伊雑宮の重要性を強調するための修辞に過ぎなかったのでしょう。しかし、46年(正保3)評定所に神訴の際には、「伊雑皇太神宮」と自称、「伊勢三宮」という表現で内外二宮と同格を主張しはじめます。47年(正保4)神訴には「伊勢三太神宮ご同体の一社」という表現。伊雑側の焦りを反映してか、伊雑宮の重要性を強調する表現が、次第に度を越えたものになって行きます。一説には、落ちのびた的矢氏の後裔から入手した、伊雑宮の縁起の古神書に基づいて主張したとも言われます。しかし真偽の程は今日知る由もありません。伊雑神人のキーマンとなる大崎兵大夫の活動もこの頃から活発化します。
 
  48年(慶安元)神宮伝奏に神訴。50年(慶安3)評定所に神訴して却下。52年(承応元)朝廷に越訴するも聞き流される等、朝廷,幕府の冷たい反応にもめげず、以降例年にわたり請願活動が続きます。
 

(3)暴走
  伊雑宮の重要性を強調する表現は更にエスカレートし、1658年(明暦4)神宮伝奏への上訴に添付した書類中、『伊雑宮旧記勘文 』に「則天照大神鎮座于伊雑村之下津磐根是號伊雑皇大神宮而祠之。然後隨神誨(中略)奉迂于伊勢國渡遇宮、是號内宮云々」と見えるように、伊雑は内宮の本家という主張にまで行き着き、それまで協力的だった内宮の態度が硬化します。59年(萬治2)同じ書類を寺社奉行に提出した際は「内宮別宮である伊雑が内外二宮と同格のように、伊勢三宮という表現を用いるのは不当」と叱責されますが、伊雑側は反論を続けます。
 
  1661年(寛文元)長年の訴えの甲斐あって、遂に老朽化した伊雑宮の造替を勝ち取りますが、ここまでくるには大崎兵大夫が関係各位に相当の金品を提供した形跡があります。
 一方で「伊雑が内宮の本宮」と主張も先鋭化。1662年(寛文2)『伊勢答志郡伊雑宮旧記』『伊雑宮旧記』『伊雑宮迂宮儀式並諸始末社記』を当局に提出し、伊雑が内外両宮の本宮と主張、ついに内外宮との係争となります。しかし伝奏勘修寺大納言方で行われた内宮と伊雑の口頭弁論に、伊雑側は敗北。神道五部書等からの剽窃が明らかで、偽書の裁定が下ります。しかし伊雑側は更に反撥。折角認められた迂宮が工事開始したのですが、伊雑側は「間違った祭神を押し付けられたままの迂宮の儀には参加できない」とサボタージュ。領主内藤飛騨の和解の説得も不調という具合に、いつのまにか戦う相手が間違ってしまっています。
 

(4)玉砕
  1663年(寛文3)二月伊雑神人、江戸にて寺社奉行に強訴、叱責される。同四月伊雑、將軍家綱に駕籠訴。とうとう、これまでの一連の行動を咎められ、神人四十余名が追放処分を受けることになります。伊雑側の主要な神人不在のまま、同七月に内宮禰宜の手で伊雑正宮迂宮が完了。完全に別宮待遇が確定します。
  このころ外宮の或る禰宜が「大崎兵大夫は出版業界に偽書作成工作をしていた」としるしており、これ以外にも本人同士の書簡など、兵大夫が以前から長野采女と接触していた形跡が残っています。
 
  • 以後の経過を追ってみましょう
    1679(延宝7)
    大成経出版。  
    1680(延宝8)
    領主内藤和泉(浅野内匠の叔父)、芝増上寺で刃傷に及び内藤家断絶。伊雑神人、この機にと巻返し活動を活発化。  
    1681(天和元)
    内外宮、朝廷,幕府に大成経処分を訴え。外宮権禰宜龍熙近、『大成経破文』等にて大成経偽書説を展開。幕府、大成経を偽書裁定、回収命令。一方、伊雑禰宜は、大成経を引いて伊雑本宮説と神領回復を神訴。  
    1682(天和2)
    鳥羽藩の密偵、潜伏中の大崎兵大夫を毒殺。悲惨な結果になってしまいました。
    1683(天和3)
    内外宮の「処分不徹底」という訴えを受けて、幕府、版木を焼却処分。潮音道海,長野采女,戸嶋惣兵衛ら関係者も処分。


  • しかし、伊雑の神領回復運動は、明治の世まで続くのです。
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    《資料》
     

    Last Update : 08/07/98
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