偽史・偽書の世界

    −古代史探求−迷宮編


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歴史系『偽書』の史的展開


 

(1)偽書の定義及び「長期孤立文献」の概念規定
 
 
  本項では、"偽書"を、自己の主張を述べるに当って、その説得力を増す目的で、先人に仮託し、若しくは由緒ある古文献・古伝承に粉飾した著述」と定義し、本邦の史書分野における偽書の歴史を振り返ってみたいと思います。
  なお、この定義に基づけば、(1)「先人仮託」の条件を満たさないものは如何に虚偽を述べても、単なる"妄説"に過ぎず、"偽書"には該当しません。また最も広義で捉えて何らの(2)「自己の主張」を含まないならば、それは"贋作"であって"偽書"ではありません。"
 

  次にもう一点、別の角度から概念規定を試みてみたいと思います。文献は、他史料による引用・言及を以って初出が実証的に確定する時点(以下、略して「初出」という)までは、孤立史料であります。従って、当該文献の奥書等に記された日付,若しくは序文ないし本文の記述が意図的に特定している成立年代(以下、「自己申告成立年代」という)と、初出との間の期間を、ここで仮に「孤立期」あるいは「自己申告期」と致します。この孤立期が異常に長い文献、特に数世紀にわたるものを"長期孤立文献"(⇔註1)と呼びたいと思います。
 

  更に、考古学的発見等の客観性を具備する出現とは対極を為す、いわば"伝奇的"初出を伴う長期孤立文献を、「突然出現型長期孤立文献」と呼びたいと思います。七支刀銘文や廣開土王碑文は、適切かつ典型的な例ではありませんが、この「突然出現」的要素が付き纏ったが為に、改竄説が発生する余地が生じた「長期孤立」文字史料と言えましょう。


  この伝奇的初出に、原史料滅失の危機という要素が絡んだものを絶滅寸前突然出現型長期孤立文献」と命名致します。これらは滅失寸前であるので、文献の現所有者の手もと以外に異本が存在しないのは当然のことで、何ら訝しく(⇔註2)ありません。また滅失寸前である理由が公権力等による隠蔽活動等である場合のものを「被弾圧性絶滅寸前突然出現型長期孤立文献」、天災人災等偶然の要因によるものを「偶発性絶滅寸前突然出現型長期孤立文献」といたします。これらのレッドデータ文献が、保護に値するか否かは、個別に判断する必要がありますが、少なくとも国会図書館に収蔵されておればNGOが活動する必要はないでしょう。
 
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(2)文献の成立年代

  文献の成立年代を考える上で重要なのは、成立時期の古い記述を含んでいることより、成立時期の新しい記述を含んでいないという事です。古い物Aと一緒にあった物Bを、Aと同様に古い物と考えることは自然ですが、古い物A,新しい物Bと一緒にあったCを、Aと同様に古い物と考えることは恣意的だからです。
 
  文献の成立年代上限は、自己申告成立年代の如何に拘わらず、記述内容である事実が発生した年代、引用された他文献の成立年代、使用された語彙の時代性等を勘案して総合的に判断されるものですが、後世の加筆・改竄及び註釈等の竄入が成立年代上限を不当に引下げている可能性についても考慮し、原史料に照らして厳密に考証する必要があります。

  このように妥当な方法で推定された成立年代上限が、自己申告成立年代を大きく下回る場合、その文献は偽書の要件のうち「先人仮託」条件を満足すると見てよいでしょう。


  一方、成立年代下限は、通常は初出にほぼ一致します。後代加筆が分別しにくい場合(⇔註3)は、史料性そのものに問題があるとせざるを得ません。

  以上の観点に立って、以下、個々の著作には深く立ち入らず、"偽書"の史的展開に主眼を置いて概括したいと思います。
 
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(3)先代旧事本紀

  記紀に関しては別項で触れるとしいたしまして、先ず偽史書の系譜を語るには、平安初期に成立したと考えられる『先代旧事本紀』(十巻本)に触れないわけにはいかないでしょう。
  「蓋し聞く−上古の世いまだ文字あらず」で始まる古語拾遺が成立するのが807年(大同2)。この古語拾遺からの引用と考えられる箇所の存在から、旧事本紀の成立の上限が判明します。また他史料による言及を根拠に下限を906年とし、総合的判断から同書は概ね9世紀前半のものとする見解が一般的と言われています。
 偽作でありながら、その成立以来、中世・近世を通じて、記紀と並ぶ、或いはそれ以上の史書・教義書として大きな影響力を持っていたことは注目に値します。
 

  同書は、聖徳太子・蘇我馬子撰と同書の序にあるため、冒頭で定義した"偽書"の要件の一「先人仮託」に該当します。
  記述内容は、記紀,古語拾遺等との相違点に関して意図的にこれら先行資料を改竄したのか、異伝を採用したのか判然としません。のみならず、「国造本紀」などに記紀にない情報を有する点もあり、同書の成立時期が記紀の成立以降一世紀ほどという比較的早い時期であることも勘案すると、その史料価値は一概に否定できないものがあります。慎重に取り扱うべき史料でありましょう。
  しかし物部氏の祖先神の系譜を重厚長大に記述する点には、姿なき実作者の積極的な自己主張が認められ、従って偽書の範疇に含まれることになります。
 

  さて、同書は、物部氏の系譜を詳細に記す点などから作者の実体が窺知されるところでありますが、実作当時の太子信仰を反映して、聖徳太子に撰述を仮託したことから、その史書としての性格に予期せぬ変容を被ることになります。
  仏法僧を敬っていた筈の太子は、神祇の聖典『先代旧事本紀』の撰述者として、あらぬ方向からスポットライトを浴びることになるのです。
 
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(4)中世神道思想の展開と旧事本紀
 
  平安末期から鎌倉初期、末法思想の広まりの中で新仏教が勃興し、他方で仏教は積極的に在来信仰を取り込む動きを見せます。これらを今日我々は、当時出現した、行基や空海に仮託された本地垂迹説の教義書という"偽書"の形で見ることが出来ます。具体的には『大和葛城寶山記』(仮託:行基)などの例が挙られるでしょう。
 
  これに対し、神祇を事とする氏族からの回答は、「仏陀の救済力の衰えを、逆本地垂迹していた神々が再び本来の姿を顕現することで補う」というものだったと総括して良いと思います。律令体制崩壊後の経済基盤であった自墾系荘園が武士階級に蚕食されつつある状況を、信仰という権威で防ぎ支えるため、遅まきながら教義の整備が始まったとも言えます。
 

  聖徳太子の『未来記』が、盛んに「発見」されだすという形で彼が預言者の性格を帯び始めたのもこの頃で、『先代旧事本紀』を核に、聖典の増殖が始まります。
 1274,1281の文永・弘安の役がナショナリズムの興隆という形で影を落としている点は、一部の新仏教と共通するところがあります。
  ここに至り、単なる仮託であった太子という要素が、いわば触媒として作用し、猛烈な化学反応を起こし始めたかの如きであります。


  鎌倉中期の神道家、卜部懷賢『釈日本紀』を表したのもこのような世情の中であったと思われます。


  本地垂迹説による仏家からの苛烈な浸蝕に対し、神祇の最後の牙城は京都の卜部一統と伊勢の外宮でした。

  伊勢神道五部書が成立するのは、鎌倉後期といわれます。
 
 
  これらは、天照を祀る伊勢内宮に対して、豊受大神を祀る外宮の優位と正統性を説くという政略的意図(⇔註4)が込められた"偽書"であります。外宮の度会氏は在地性が強く、中臣氏と擬制的同族関係を結んだ内宮の荒木田氏とは異なり、オリジナリティに立脚したオーソライゼイションを志向したのでしょう。
  武家−特に関東方面−からの領地寄進を積極的に獲得する活動は、仏家に伍していくだけの権威ある聖典を必要とするのみならず、神社間の競争を有利に展開するために自社の祭神の格付けを嵩上げするニーズが生じていたのです。


 1320(元応2)『類聚神祇本源』で、伊勢外宮の渡会家行は、神道五部書を基礎に教義を集大成するとともに、旧事本紀を重視して、神主仏従の立場で聖徳太子を聖人視する思想を体系化します。

  卜部の一族である慈遍は、楠木正成の挙兵と同じ1332(元弘2)『旧事本紀玄義』を著し、伊勢神道に添って逆本地垂迹説を展開します。

  北畠親房が「大日本は神国なり。」で始まる『神皇正統記』を執筆して南朝正統論を展開するのもこの頃のです。【1339(延元4)】
 


  室町期に入ると、応永の外寇の翌々年に当たる1421(応永28)、『神代巻見聞』を著した良遍は、「旧事本紀は、もと神代文字で書かれて史料を聖徳太子が漢訳したもの」と説き、ナショナリズム的色彩を更に強めます。

  吉田神道の創唱者吉田兼倶(1453〜1511)は、理論家と言うより政治的に動いた人という印象が強いですが、神儒仏三教同根説を唱道、記紀とともに旧事本紀を重視し、太子を神儒仏三教一致の聖人とする位置づけを確立します。そして旧事本紀もまた、神儒仏の総合聖典化が水面下で進行していくのです。なお兼倶の主著『唯一神道法名要集』も古伝書に仮託した形式をとっているので"偽書"に該当する事になります。

 こうして見る限り、"偽書"形態はレトリック上の一般的技法として、一向に悪びれずに用いられているようにも思われます。
 
 
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(5)大成經の登場
 
  新たな展開を迎えるのは江戸初期です。
1658(万治元)、伊勢別宮の一つである伊雑宮が、再建願申請書に添付した資料の神書について、偽作疑惑が訴訟となるという事件が発生しました。(⇔詳細:伊雑宮偽書事件顛末記)
  伊雑側の「古文書」の主張は、「本来は、伊雑宮が天照大神を祀る日神の宮であり、現在天照大神を祀る内宮は格下の星神の社であった。外宮は月神の宮である。」というもので、偽作と訴え出たのは無論貶められた内宮です。
  事件は暗闘に発展し、死者も出る事態に発展しましたが、1663(寛文3)に偽書(公文書偽造)の廉等で伊雑宮の神官が処分を受け、伊雑宮は再建されるがあくまで伊勢別宮として位置づけられるということで、一応の決着したかに見えました。


  ところが、1670(寛文10)『旧事本紀』の異本の一つである三一巻本(鷦鷯本;版元:京極内蔵助)が刊行されます。(『先代旧事本紀大成経』:宮東斎臣註解:先代旧事本紀刊行会刊)
  続いて、1675(延宝3)経教本紀の一部「宗徳経」や憲法本紀に当たる「聖徳太子五憲法」が、1676(延宝4)経教本紀の一部「神教経」と続々上梓されます。
  これらは儒仏神三教調和思想を基調とした従来路線に沿いつつも、神統譜に於てかなり大胆な「異説」が導入されています。中世に盛んに出現した聖徳太子の『未来記』も、「未然本紀」という形で取り込まれ、一大聚合体となりました。
  1678(延宝6)外宮の度会延佳がオリジナルの十巻本を校定再刊したことは、この情勢と無関係ではないでしょう。
  そして1679(延宝7)、七二巻本(『神代皇代大成経』高野本;版元:戸嶋惣兵衛)が本格刊行されます。


  これら『大成経』は短期間に広く流布し、当時の知識人・宗教家等に与えた影響も大きなものであったということです。思想としての神道が禅僧の哲学的思索にお株を奪われて沈滞気味であった状況の中で、非学問的な著作でありながら思想が熱く語られていた点が魅力であったのではないでしょうか。
 しかし、決定的な破綻を内包していました。万治元年の偽書事件での伊雑宮の主張が根本に盛り込まれていたのです。伊勢両宮は京都の公家を介して政治的に動き、家綱沒後の1681(天和元)つまり磔茂左衛門騒動の同年、江戸最初の禁書事件が勃発します。


  この禁書事件自体は、本来は下馬將軍酒井雅楽を追い落とした綱吉が家綱時代の懸案事件をいっきに片づけたものに過ぎず、越後高田事件等と同じ政治的文脈で語るのが妥当であって、思想統制的な側面に波及するのは後年のことであろうかと思います。
  発行当事者の処分のみならず、1683(天和3)には版木も焼却処分される徹底した対処がとられましたが、これは内宮の執拗な要求に応えたもので、行政当局の主導になるものとは思われません。無論、既に流布してしまったものには手の施し様がありません。それらは更なる異本を産み出しつつ拡散していき、或いは朝廷や幕府の禁止通達にもかかわらず各地の社伝創作の種本となったことでしょう。
 

  ここで特徴的なのは、それまで特定の家系や学統の間で伝えられ、或いは静的に増殖してきた古伝書が、出版というメディアを通して一気に拡散したことです。喩えて言うなら接触感染から空気感染に変異したというところでしょうか。
 
 
 
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(6)"偽書"の時代
 
  大成経事件から半世紀を経た頃、古事記偽書説の嚆矢で知られる多田義俊(南嶺)が著したという『大清経異考』は今は書名が伝わるのみですが、多田は矛先をオリジナルの十巻本にも向け、1731(享保16)『旧事記偽書明証考』を著します。1736(元文元)吉見幸和(1673〜1761)は『五部書説弁』を著して神道五部書偽書説を立証、1778(安永7)には伊勢貞丈が『旧事本紀剥偽』と、学者達が次々と神書に牙をむきます。『神皇正統記』まで偽書に列せられるという事態は、正統派の学者の間にも行き過ぎ気味の偽書狩りブームがあったように見えます。これらのことは、逆に当時いかに偽書が蔓延していたかを物語っていると言えましょう。
 

  井保勇之進(和仁估容聡)が近江国三尾神社に"長期孤立文献"『秀真伝』を奉納したのは、丁度同じ頃【1779(安永8)】です。大成経と秀真伝の派生関係については、大成経序の「泡輪宮の土簡の記述等に基づき、聖徳太子・蘇我馬子が撰」という来歴が、秀真伝の出現譚と類似しているところから、支持者の間で議論となったところと聞きます。しかし大成経の初出が秀真伝より100年溯るのは動かし難い事実です。
 
 1819(文政2)平田篤胤『古史徴開題記』刊行。神世文字肯定論を展開、古語拾遺の「上古の世いまだ文字あらず」に対し、釈日本紀を根拠に論陣を張ります。平安初期の文献を中世の史料で批判するのは一見おかしく見えますが、そこは平田です。ぬかりはありません。
 
 1830(天保元) 豊後の国学者・幸松葉枝尺が『上記』(宗像本四十一巻)を見出します。同じ頃、垂加流,吉田神道を修めた京都の神道家;小笠原通当(1792〜1854)が『秀真伝』を再発見、書写し、秀真に立脚した神道活動を展開します。この頃は1838(天保9)の天理教、1859(安政6)の金光教など神道系新宗教の創唱が続く時期です。
 

  以降の展開は、年表風に略述します。

 
 1877(明治10)吉良義風『上記鈔訳』を刊行   …(⇔余談)見なくていいです…
 1908(明治41)藤岡勝二『國語略史』で神代文字を否定。
 1911(明治44)木村鷹太郎『世界的研究に基づける日本太古史』を刊行。
  "古伝書"たちの記述が世界に雄飛しだすのは、なぜか邪馬台国エジプト説の木村以降です。
 1921(大正10)三輪義[冫煕]『神皇紀』(宮下文書)を刊行
 1922(大正11)竹内巨麿(天津教)、「神宝」の供覧開始
 1936(昭和11)竹内巨麿、不敬罪容疑で検挙
 1936(昭和11)狩野亨吉『天津教古文書の批判』発表
 1943(昭和18)山田孝雄『所謂神代文字の論』発表
 1961(昭和36)橋本進吉『国語学概論』で神代文字を否定 (⇔大意
  『上記鈔訳』と宮下文書、竹内文書等の派生関係を系統的に把握する論者もあり、その内容は示唆的です。
 

 
  そして、「長期孤立文献」たちはその後どうなったかと言うと、実は今日も突然出現し続けているのです。
   
 

- この項 終り -

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1:長期孤立文献
 閉鎖された孤立系の中同士で引用・言及があるものも含む。[Back]
2:何ら訝しくありません
 ということにしておく。[Back]…( 参考)
3:後代加筆が分別しにくい場合
 都合の悪い部分を恣意的に切り捨てて、成立年代を引き上げることを許容しない趣旨である。[Back]
4:神道五部書の政略的意図
 それぞれ成立年代も著者も同一とは考え難く、当然にその著作意図にも程度の差はあるが、基調として内宮を外宮と同等,更には上位と位置づける為の史料操作の痕跡が認められる。
 しかし思想書としての価値を傷つけるものではない。[Back]
 

Last Update : 08/05/98
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