祈り


 電算機に対して命令を発行する際、大抵の場合[Enter]若しくは[Return]と呼ばれる鍵を用いる。この鍵は鍵盤上の様々な鍵の中で最も重要な物である、それは自らの運命を決定し具現化する扉を開ける最後の鍵なのだ。  

 特に技術者はこの鍵を様々な思いを込めて押す。その思いは2日連続の徹夜で夜中に突然鼻血を噴出した原因を作った納期の期日に対する恨みだったり、折角の3連休を休日出勤でつぶした顧客からの仕様変更に対する恨みだったり、調子の良い事だけ言って腐った仕事をつかまされてくる営業に対する恨みだったり、コンビニエンスストアで夜食を買ったとき「ちん」した弁当の上にチョコレートケーキを乗せられた事に対する恨み、だったりする。

 と同時にこのような状況から脱する事を祈る、神に祈る、仏に祈る、裏山の御狐様に祈る、法皇様の血は白いらしい。

 この恨みと祈りが混ざった気持ちを指先に込めて、ある人は激しく、ある人は柔らかに、またある人は別の人に押してもらう。

 その鍵を押したとき運命の扉は開かれる、がその扉はほとんどの場合我々をさらなる苦役をもたらす世界に放り出す場合がほとんどだ。幾度かの扉を開け、何杯もの珈琲を飲み下して、最後の扉に辿り着いた時我々は始めて開放される。

 祈りが通じ最後の扉を開くとき、それは意外とあっけないものである。しかし疲労の空気の中で朝の光のような柔らかな至福に包れるその瞬間。ようなでは無く本当に朝の光だったりするときもあるが、この瞬間のためにエンジニアはエンジニアでありつづけるのだ。

 その余韻を味わいながら報告書を書いているとき、久々の休みと落ち着いた日々に思いを馳せているその時、 悪魔はその無防備な状態を見逃さない。親しげに近づきながら「よくやったね。ところで次の仕事なんだが...」、はぁぁ。




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