JONの呟き 

 

 

(第3話) 
…  青 春 の 一 こ ま …
 

 

 

                                                        
                   
                                                                                                                                                     
    




     大館鳳鳴高校   秋の体育祭  
       



         秋の体育祭   

   


修 学 旅 行
高校2年時、関西方面へ


     

 「故郷は遠きに在りて想うもの」とは良く言ったものだ。

 

  月日の経過とともに悪いところは切り捨てられ、良いところばかりが目立って見えてくるのは不思議なものである。


   「ウサギ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川… …、忘れ難き故郷」と、童謡に広く歌われている郷愁の心は人間の情緒をよく表しているものだと思う。

 

  小学・中学・高校と、時を経るにしたがって将来への夢や希望は大きく膨らみ、楽しかったことや苦しかったことなど、それまでに経験した数々の想い出は強烈なインパクトを伴って脳裏に秘めているものである。

 

 「森吉の峰、鳳凰の … 」で始まる高校時代の校歌をふとした拍子に口ずさむことがあるのだが、途端に当時の状況が蘇り、懐かしさからか感無量の思いで胸が一杯になることがある。

 

 小生が通っていた学校は、地元では進学校としてある程度名前の通っていた学校であったのだが、当時から少々の変り種が入学してくることも珍しくはなかったのである。


 今回はその話をご紹介しよう。 (場面は東北の片田舎の高等学校、1年F組のある日の放課後)

 

 たまたま同じクラスで巡り合ったH君の話である。


 H君の印象は最初から強烈であった。

 一見蛮カラ風でもあったのだが、決めるべきところはきっちり決めていて、日頃の襟足は常に正しかったように記憶している。

 彼は水泳部に所属しており、毎日忙しく勉学と部活の練習に勤しんでいた。

 体格的には中肉中背であったのだが、陸上・水泳・武道と、どんなスポーツをやらせても他の仲間より抜きん出ていて、身のこなし方も上手く、非凡な才能を発揮していたのである。

 勿論学年の成績も常にトップクラスにあり、まさに「文武両道」を身をもって証明していた人物の一人でもあった。


 小生とはそれほど親しい間柄では無かったのだが、ある日の放課後、教室内にいたクラス仲間数人で、英語教師の講義スタイルについての談義を始めたのである。


 学年担当の英語教師が二人いたのであるが、「どちらの教師の講義が聞きやすく学びやすいかと言うことになった。


 あくまでもテキストに沿って忠実な教え方のT教師と、かたや世間話や巷談にすぐに脱線してしまい、なかなか授業が前に進まないW教師とがいたのである。

 

 ここでどちらが英語教師として「面白く 、かつ覚え易いか」で俄然話が盛り上がり、仲間の大半が正攻法のT教師を即座に支持したため、決着はすぐついたように思われた。

 しかしH君は、頑なに一歩として譲らなかった。「授業に幅ができ、社会勉強にもなり大いに役立つ」としてただ一人声高にW教師を支持したのである。


 このH君、またある時には度胸試しのつもりか、クラスの皆の前で顔全体を学生帽ですっぽりと覆い隠し、起立して覚えたての応援歌を大声で我鳴ったりすることも幾度となくあった。

 そんなH君も三学年を経て関西のある大学に進学してからは、彼の人生を一変させてしまうほどのとてつもない事件に巻き込まれていくのである。


 学生運動にも陰りが見え初めてきた頃であったが、大学闘争で敗北した過激派学生活動家らは、関西の大学を拠点に体制立て直しのために武闘路線を敷き、トロキスト集団へとその姿かたちを変貌させていった。


 その後の詳細は良く知らないのであるが、日本赤軍のメンバーとなっていた彼は、重信房子、奥平剛士、岡本公三らが主宰する「赤軍派アラブ委員会」に参加し、パレスチナ解放運動の一翼を担うために「テルアビブ空港襲撃事件」計画の一端に加わっていたのである。


 PLOやPFLPとの接触を深めていった重信や奥平のパイプ役として日本とレバノンを行き来していたのだが、帰国直後に逮捕拘束され活動停止を余儀なくされてしまった。

 しかし旧約聖書にも登場する「カナンの地」をユダヤ民族から奪還し、パレスチナ人民に開放するという彼の大きな使命は逮捕後もまったく消え失せることは無かった。


 その後、活動拠点を国内に移し仲間を増やしながら長年に渡り、彼の信念である「パレスチナ解放運動」を展開していったのであるが、その彼もとうとう、パレスチナの「土地の日」にあたる2002年3月30日に東京日比谷公園の一角で、自ら用意してきた灯油を全身に被り焼身自殺を遂げてしまったのである。

 

 イスラエルへの抗議の意思表示であった。

 

 ここで余談になってしまうが、3月30日という日付を思い浮かべていた時に、小生ふと気が付いたのだ。 


  1960年代後半に新谷のり子が歌っていた反戦歌「フランシーヌの場合は」という曲の、フレーズに「3月30日の日曜日、パリの朝に燃えた命ひとつ…」という歌い文句があった。

 

 男女の違いはあるにせよ、詩の内容からしても、彼の死がどうしてもその歌詞とオーバーラップしてしまうのである。


 いずれにしても、小生にとって彼の最期は到底理解し難いものであった。

 

 


    JONの呟き日記(楽天ブログ)より転載 …  
                                    … 文面の一部に修正あり