生没年不詳 九江郡下蔡出身
……いや、ビックリです。まさかこんなに周泰がブレークするとは。
だって……小説とかマンガとかでは……地味なんだもん(^_^;)。
このビジュアルと声と居合使いという設定は反則だよねぇ(苦笑)。
完全にコーエーの策略にハマっちゃったよなぁ。誰がって?や、私(汗)。
陸遜とか徐晃とか……こんなんばっかだよ……(苦笑)。
ちなみに正史では、周泰伝は文庫本にして約2ページ半。……少なっ!
小説とかゲームの説明では元海賊と書いてあるけど、正史にはその記述はないんですな。
ただ寒門(賤しい家柄)の出とあるので、あながち間違いじゃないのかも。
で、蒋欽と一緒に孫策の配下に入り側近となり、つつしみ深く(←正史にそう
書いてあるんだよ)孫策に仕えたワケですが。その周泰のひととなりを愛した(←正史に
そう書いてあるんだよ)孫権が孫策に頼み込んで周泰を孫権の配下にしたワケです。
で、孫策が六県山越の不服住民を討伐した時に、孫権は千人に満たない兵で宣城を守って
いたワケですが、孫権、たかをくくっていて防護柵もロクに作らなかったって話です。
ダメじゃん!そしたら案の定というか、数千人の山越の不服住民たちが孫権達を襲って
きてしまったのです。兵士達は慌てふためきオロオロするばかり。孫権ピーンチ!
そんな中で周泰だけは「勇力を奮い起こして、身を持って孫権を守り、その大胆さは
人に倍するものがあった」(←正史のまんま)らしいですよ!で、他の側近達も
周泰に続いて戦うことが出来て、ようやく不服住民たちを追い返すことが出来たってワケです。
この時の戦いで周泰は12の傷を負い、しばらく人事不省だったとか。そこまでして
自分を守ってくれた周泰に対し、孫権の感激は想像に難くないですな。
その後周泰は皖の攻撃(多分、孫策&周瑜が二喬と会った時かと思われ)や黄祖討伐、
赤壁の戦いや南郡の戦い、そして濡須の戦いなどで活躍をしていったワケですが。
濡須の戦いの時に周泰の指揮下には徐盛や朱然たちが入っていたんですが、彼らは周泰の下に
いるのが不満だったのか、誰も周泰の命令に従わなかったらしい。陸遜のときといい、呉って
こんなんばっかだな。(陸遜の時も徐盛がいたような。そして周泰もいたって話も(苦笑)。)
で、それを見兼ねた孫権が、わざわざ濡須まで行って宴会を開き、孫権自らが諸将に酒を
ついでまわり、周泰の所に来たときに、周泰に命じて上着を脱がせ(ハイそこ!萌えないように!)
孫権は周泰の体についた傷跡を指しながらどのように傷を受けたのかを尋ね、周泰は
ひとつひとつ昔の戦いを思い起こしつつ答えたと。で、その次の日には孫権は周泰に
御傘(と書いて「きぬがさ」と読むらしい。主君が用いる儀仗用の日傘。)を送ったらしい。
この時の描写が裴松之の注釈にあるのだが、「孫権は周泰の上腕をつかむと滂沱と涙を流し(ただ
涙を流すだけじゃない、滂沱とだよ、ぼうだ!)、彼を字(あざな)で呼んで言った。
「幼平どの、あなたは私の兄と私のために、熊や虎のごとく勇敢に戦い、身体も生命も
惜しまれることなく働いて、数十の傷を負われ、肌は切り刻んだかのようだ。私はどうして
肉親と同様の篤い関係でもって遇し、兵馬の指揮という重要な任務を委ねずにおられよう。
あなたは呉にとっての功臣であり、私はあなたと栄辱を共にし、喜び悲しみを同じくしたいと思う。
幼平どの、あなたが思うように事をはこんでくれたまえ。」そしてその場で命令を出して
自分がいつも用いているかぶりもの(字が出ねぇ!「巾責」って字)と青い御傘を周泰に届けさせた。
宴会が終わると、孫権はその場にとどまって見送り、周泰に歩兵と騎兵による行列を作って
帰途につかせ、太鼓や角笛の軍楽が鳴らされ、鼓笛隊が音楽を奏した。」
……ここまでされて、なお周泰に逆らおうとする者がいるだろうか。いやない(反語)。
これでもまだ周泰に反抗したら、完全に孫権の怒りを買うだろーよ(^_^;)。
このことがあってから徐盛たちは周泰の指揮に従うようになったとか。そりゃそーだろな。
なんかもうね、周泰伝って、短いくせにどこ読んでも孫権が出てくるんだよ。
ちなみに小説などではこの濡須の戦いでも周泰は孫権のピンチを身を呈して守ってます。
横山光輝三国志を見てみたら、降り注ぐ矢を薙ぎ払ってますな(横光三国志の周泰、若っ!!)。
しかし、正史の呉主伝(いうなれば孫権伝)では物凄くアッサリと書かれてて拍子抜け
するくらいです。合肥は結構書かれてるのになァ。数少ない周泰の描写を見てると、
なんとなく前線に張っているよりも、孫権の側にいることが多かったんじゃないかなーと
想像してしまいます。それなら華々しい活躍が少ないのも頷ける。そーいや横光三国志で
思い出したけど、呉妹君(孫尚香)が劉備と一緒に孫権の元から逃げた時に、孫権の剣を持って
一番最後に登場したのが周泰だったような(結局間に合わず逃げられたが)。
しかし、ここまで孫権に気に入られながら、死亡時期が特定できてないのは何故?
一応「黄武年間(222〜229)に死去した」って書いてあるのだが、範囲広すぎ。
重鎮だったら死亡時期くらい判ってると思うんだけどな。やはり地味ゆえか。
まあ、とりあえず何だ、これ読んだら、無双3の呉伝のエンディング3を見てみることを
オススメする。EDでの孫権の態度がよ〜っく理解できるかと思われます。