170年(庚戌)〜207年没 潁川郡陽テキ県出身。
スミマセン、郭嘉は「真・三國無双2」には登場してないんですが、「三國志戦記」登場にあたり
ど〜しても書きたくなってしまってですね、番外編ということで登場です。……ハイ、ワタクシ郭嘉が
大好きなんであります(^_^;)。もしかしたら姜維の次くらいに好きかもしんない。
郭嘉は二十歳くらいの時から俗世間とは交わらず、しかしながらその見識の豊かさは識者の間では
有名で、まさに「知る人ぞ知る」存在であったらしい。で、始めは袁紹の元にいったものの
「こいつぁ〜ダメだ」と思ったらしく、あろうことか袁紹の謀臣に向かって「袁紹じゃ天下
取れないね。」と言い放って(いや、もっとちゃんとした言葉で言っているのだが、
要約すればこんな感じかと(苦笑))去って行っている。よく殺されなかったな(汗)。
この時を前後して、曹操の元に戯志才という郭嘉と同じ潁川郡出身の軍師がいて、曹操に重用されて
いたのが早逝してしまい、「戯志才がいなくなってから計略を相談できる相手がいない(え?そう
だったの?)。誰か代わりになるやつは居ないのか。」と荀イクに相談したところ紹介されたのが
郭嘉だったと。で、対面した二人はまさにお互い「これだよこれー!!」と意気投合したのでありました。
袁紹と対決する際に郭嘉が曹操に対して「曹操が袁紹より優っている10の理由」を文庫本2ページ分に
わたって(笑)説明したり、飛ぶ鳥を落とす勢いの孫策の横死を予言したり、曹操の元に落ち延びてきた
劉備の処遇に関して進言したりと結構物語的にも見せ場は多い。(しかしこの劉備の処遇に対して、
「魏書」と「傅子」で伝えてることが全然違っていたりするのだが(汗)。)
とにかく曹操はことあるごとに郭嘉に相談していたらしいフシがある。なにせ曹操、「奉孝(郭嘉)だけが
わしの意図をよくわきまえている」とまで言っている。あれだけ人材集めておいて郭嘉だけ?とツッコミの
一つも入れたくなるが(笑)、おそらく性格的な相性なんかもあったんじゃないかと思うのであります。
というのも、曹操は若い頃はお世辞にも素行が良かったとは言えなかったらしいのだが、郭嘉も
品行が修まらなくてカタブツの陳羣あたりからたびたび批判されていたという筋金入りの素行の
悪さだったらしい。しかし批判されてもどこ吹く風な郭嘉を見て、ますます郭嘉を重用し、また、
郭嘉を批判する陳羣を見て、実に公正なヤツよ、と陳羣を重用する曹操も大きな器だなぁ。
しかしそんな郭嘉も袁家討伐の際に病に倒れ、37才の若さで亡くなってしまうのである(号泣)。
郭嘉の死に対した曹操の嘆きといったらそれはもう凄いもので、「奉孝こそはわしを理解して
いた男なのだ。天下の人で理解してくれる者は少ない。このことでも残念至極なのだ。
なんとしたことか。なんとしたことか。」と嘆き、さらに赤壁で大敗した時は「郭奉孝がおれば、
わしをこんな目にあわせなかったであろうに。哀しいかな奉孝、痛ましいかな
奉孝、惜しいかな奉孝」とまで言っている。ここまで言われると他の家臣の立場も
ないが(苦笑)、それだけ曹操の郭嘉に対する哀惜の念は強かったということなのでしょう。
なにせ「魏志郭嘉伝」で文庫本3ページにわたって郭嘉の死に対する曹操の嘆きを描写して
いるのである。「郭嘉伝」の4分の1以上。ここまで書かれている人はそうはいない。
曹操は15歳も歳若い郭嘉に対して、後の事を託そうと思っていた(要するに劉備が諸葛亮に
後事を託したように)。それだけにショックが大きかったんだなぁ……。曹操の生涯を見て、
郭嘉ほど曹操と息の合った軍師って居なかったんじゃないかな〜と思う(武将は夏侯惇がいたけど)。
荀イクの最後とか見てると特に。で、曹操の人材コレクターぶりを見てると、もしかしたら
郭嘉の代わりとなる人物をず〜っと探し続けていたのではないかと思うのであります。
(結局見つけられたのかどうかは私にはわかりませんが……多分見つからなかったんじゃないかな。)
この辺、多分に私のドリーム入っていますけどね。劉備&諸葛亮、孫策&周瑜のように
曹操には郭嘉、私の中ではこれで決まり!になっているんですよ(^_^;)。