徐晃公明(Xu-huang Gong-ming)

生年不詳〜227年没 河東郡楊県出身。

もともと漢の臣・楊奉の部下で、楊奉に曹操の下につくように進言とかしている。
で、始め楊奉もその気だったのが、何故か心変わりして曹操と敵対してしまったため楊奉は
滅ぼされ、その時に囚われた徐晃はそのまま曹操の配下になった、ということらしい。

いうなれば徐晃は生っ粋の曹操の部下というワケではないのだが、曹操の信頼たるや
相当なもので、呂布討伐やら袁家討伐やら、あげたる戦果も相当なもの。有名なのは馬超・韓遂を
討伐する、いわゆる「潼関の戦い」と、関羽討伐の「樊城の戦い」。ゲームにも入ってますな。

潼関では、吉川英治の小説などでは血気にはやる若造扱いされ、敵の小馬鹿にしたような
態度に堪忍袋の緒が切れた曹洪に振り回されて敗戦の憂き目にあわされているが、正史には
そんな記述はどこにもない(つーかそもそも正史では、徐晃に対する記述で、「敗戦した」という
記述が一つもないのだ。)。書かれ方によってイメージって変わるもんだ。

ちなみにこの潼関の時点で、ツッコミ君(笑)裴松之が「徐晃はまだ『曹操の臣』と称している
ハズがない!」と噛み付いているのだが、これ、何故なんでしょう?御存知の方、是非教えて
くださいませ。(まだ「漢の臣」ということなのかな?)

樊城では関羽に攻められピンチの曹仁を助け(無双2では総大将が司馬懿になっているが、
本当は曹仁なのだよ。よって無双3が正しい。)、関羽を破っている。この時のエピソードとして
正史の「蜀書・関羽伝」に樊城で対峙した時のこんな話がある。

「徐晃と関羽は昔からたがいに敬愛しあっていたので、はるか距離を隔てて語り合ったが、しかし
ただ世間話だけで、軍事の話には触れなかった。しばらくして、徐晃は馬からおりると、命令を発し、
「関雲長の首をとったものには賞金千斤をやる」と言った。関羽はびっくりして怖れ、徐晃に
「大兄、これは何のことだ」というと、徐晃は「これは、ただ国家のことなのだ」と答えた。」

無双2での「樊城の戦い」で徐晃と関羽が対峙すると見られるイベントの元ネタですな。
これは徐晃の公私を混同しない姿勢を紹介しているのだと思うが、それよりなにより私の目を
ひいたのは、関羽が徐晃を「大兄」と呼んでいること。ってことは何かい?徐晃って関羽より
年上ってことかい?これにはかなり驚いたぞ。全然「若造」じゃないじゃないか。

この樊城で、仕掛けた戦いに全て勝った徐晃は、曹操から「孫子以上だ!」とベタ褒めされている。
しかも関羽を破った祝勝会(?)で、他の兵士達は皆浮かれいたのが、徐晃の隊だけが浮かれずに
持ち場を離れずに整然としていたので、それはもう曹操様大喜び。「徐晃は周亜父の風格がある。」と
またもベタ褒め。(周亜父:前漢の文帝、景帝の時の将軍で「呉楚七国の乱」で大活躍した。)
昔の中国の人って過去の偉人にたとえるの好きだよね。今もそうなのかな?

徐晃の性格の描写として「つつましく、慎重そのものの性格で、軍を率いているときは
いつも遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をしておき、その後で戦った。」
とある。ちなみに掃討戦の時は、兵士は食事の暇もない程敵を追い立てたらしい。
実際に配下についていた兵士は大変だったろうが、好きだなあ、こういう武将。
(しかしこうなると、どこから「徐晃は血気にはやった若造」という設定になるのか不思議だ。)
「〜無双」の世界じゃ『武』を追い求める猛将タイプだが、どっちかってーと知将タイプ
なのでは?というのが正史を読んだ正直な感想である。や、猛将タイプでもいいんだけどさ。

で、つねに「昔の人は明君と遭遇しないことに苦しんだが、今、幸運にもそれ(曹操のことね)に
遭遇している。個人の名声など問題ではなく、(曹操のために)自分の力を尽くさねばならない」
と言っていたらしい。こんな部下もっちゃったら嬉しくて堪らないよね、曹操様?渋すぎるぞ徐晃!

正史でも魏での戦功が厚い5人として張遼、徐晃、張コウ、楽進、于禁を上げているが、
その中でも特に張遼と徐晃を双璧扱いしている。なのに……なのに何で小説やマンガなどでは
扱いが地味なんだ!于禁みたいに女にされたりオカマにされるような扱いされるよりはマシ
かもしれんが(苦笑)。某国営放送の人形劇なんて存在自体が無視されてたな、そういえば(泣)。
そういう意味では徐晃の存在にスポットライトを当てた「真・三國無双2」およびコーエーは
なかなか侮れないぞ。つーか私、陸遜といい、完全にコーエーの術中にハマってないか(^_^;)?