趙雲子龍(chao-yun Tsu-lung)

生年不詳〜229年没 常山郡真定県出身。

もともと私が三国志の世界に入ったのが「横山光輝三国志」。そこでの趙雲は四角張った
いかにも「カタブツでぇす!」的な描写で、私もそういうイメージを持っていた。しかし
それ以外での趙雲は大抵美形に描かれていることが多いのであるが、その理由は正史に描かれている
「身長八尺(約190cm?)、姿や顔つきが『際立って』立派」という記述。まあ横山三国志の
趙雲も、ある意味「立派な」姿形ではある(^_^;)。美形な趙雲も四角い趙雲も私は好きだけどね。

もともと公孫サン(漢字出ないし(泣)。『王贊』こんな字。)の配下だったのが、ちょうど
劉備も公孫サンの配下にいて意気投合、後に劉備の配下に加わったワケだが、劉備がいかに趙雲を
気に入っていたかということが正史に書いてある。曰く、「先主(劉備)は趙雲と同じ床で眠った」と。
ちなみに昔の中国は、親睦をはかるために同じ床で眠る、というのはよくあったことなので邪推を
してはイケナイ(笑)。そして劉備が敗北したとき(多分長坂)、『趙雲が逃げてしまった』と言う
人がいたのを、劉備はその人を手戟で打ち、「子龍(趙雲)は私を見捨てて逃げたりはしない」と
言ったそうな。打たれた人は哀れだが(^_^;)、それほど劉備は趙雲を信頼していたということで。

趙雲を信頼していたのは劉備だけではなく、諸葛亮からの信頼も絶大だった。
とにかく「ここ一番」という戦や、「ここで踏ん張らないとキツイ」という戦には率先して
趙雲を使っていたフシがある。とにかく堅実というイメージがあるのだが、趙雲に関して
書いてある本などで読むもの読むもの趙雲を悪く書いてあるものが無い!劉璋を降して成都に
入った時も、土地を諸将に分配しようとした劉備に対し、「まずは国民を落ち着かせてから」と意見して
劉備もそれに従ったり、街亭で敗戦したときも殿軍(引き上げる時の最後軍)を見事に勤め、それに対して
諸葛亮が恩賞をとらせようとしても「負け戦なのだから恩賞は戴けない。それよりその分を冬の仕度品と
するように」と進言して諸葛亮もそれを受け入れている。夷陵の戦いの前に「敵は呉ではなく魏」
という進言を劉備にしたのは「無双2」のムービー通り。劉備は聞き入れなくて大敗北したけれど。
容姿が立派、性格も堅実で真面目、しかも無欲、まさに非の打ち所のない名将である。

趙雲で有名なのが、劉備が荊州の桂陽を攻めた時、そこの太守・趙範が兄嫁を差し出そうとしたのを
頑として断った話。曰く、「趙範とは同姓なので彼の兄の嫁なら自分の兄の嫁と同然(昔の中国は
同じ姓の人は家族と同じ、という感覚だったらしい)」また「趙範はせっぱつまって投降したのだから
信用ならん」ということで。ところでその兄嫁、すんごい美人だったらしい。三国志の時代は女性の地位は
かなり低く、敗戦した将の周りの女性なんてもう賞品みたいなもんで勝った方が好き勝手にできた時代、
そんな美人を前に体裁を慮れるってのも凄い。で、曰く「世の中に女性は大勢いるから」。
……相当モテたからこその余裕だったのかもしれない、と思い始めた今日この頃。

で、そういうこともあり、趙雲といえば「独身」というイメージが強いのだが、趙雲が死ぬ時になって
唐突に彼の息子、趙統と趙広があらわれる。この場面で「あんた一体いつ結婚したんだーッ!!」という
ツッコミ入れた人多数(多分。つーか私は入れた)。実際、趙雲の嫁に関する記述がないのでよく解らんのだが。
小説などでは趙雲の死を知らせる場面しか出てこないことが多い趙統と趙広だが、それなりに出世は
していたようで。なのに関興や張苞と比べて存在感が無い(「薄い」ではなくて最早「無い」(苦笑)。)
のは、やはり趙雲自身が長い間活躍してたから物語に出てくる必然性がなかったんだろうな。
趙広は姜維に従って前線にまで行っているのにな(で、戦死してる)。嗚呼……。

ちなみに趙雲の死後送られた諡号は「順平侯」。曰く「柔順、賢明、慈愛、恩恵を有する者を「順」と称し、
仕事をするのに秩序があるのを「平」と称し、また、災禍・動乱を平定するのを「平」と称する」ということで
姜維たちが「趙雲には「順平侯」が相応しい」と進言したそうで。や、「姜維が言った」、ってのが
なんか嬉しくてさ。(姜維「たち」ってなってるけど、まあいいじゃないか(^_^;)。)